壱岐島の歴史を解説します!

壱岐島

九州と対馬の間に位置する長崎県の離島。それが壱岐島(いきしま)です。

日本最古の史書・古事記では「伊伎島(いきのしま)」と書かれ、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)と言います。

今回はそんな壱岐島の歴史について、解説したいと思います。ぜひ最後まで読んでください。

壱岐島の歴史年表

  • ・旧石器時代(BC20000年頃):旧石器時代後期のヒトの痕跡として、カラカミ遺跡や原の辻遺跡からナイフ形石器や台形状石器が発見される。また原の辻遺跡からはナウマンゾウやオオツノジカの骨が発見される
  • ・縄文時代(BC3000年頃):縄文時代前期と推定される郷ノ浦町片原触の鎌崎遺跡や名切遺跡が残っている。
  • ・弥生時代(BC300年頃)ほぼ全島に人々が住んだと考えられており、河川流域に遺跡が濃密に分布している。
  • ・古墳時代(300年頃):河川の流域や島の中部などに、横穴式石室墳群が分布している。
  • ・飛鳥時代(700年頃):令制国として壱岐国が置かれ、鬼の窟古墳の近くには壱岐国分寺が置かれた
  • ・1019年:「刀伊の入寇」事件が発生
  • ・1274年/1281年:モンゴル帝国とその属国により、2回の侵攻を受ける
  • ・1472年:岸岳城の主であった波多泰が壱岐に侵攻
  • ・1556年:岸岳城でお家騒動の末、藤堂丸が当主に
  • ・江戸時代(1600〜1868年):壱岐島は平戸藩へ一部編入
  • ・1871年:廃藩置県の際に平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部に編入
  • ・1896年:郡区町村編制法で統合され、壱岐郡のみが残される
  • ・1889年:壱岐郡に7村。石田郡に5村の計12村が発足
  • ・2004年:壱岐市が誕生

壱岐島の歴史解説

壱岐島の歴史について、ピックアップして解説します。

旧石器時代(BC20000年頃)

旧石器時代後期のヒトの痕跡として、カラカミ遺跡や原の辻遺跡からナイフ形石器や台形状石器が発見されました。

また原の辻遺跡からは、ナウマンゾウやオオツノジカの骨が発見されています。

紀元前18000年〜16000年頃、海水面の高さは今よりも150m下にありました。そのため日本列島と中国大陸は「陸続き」でした。

その頃にナウマンゾウが朝鮮半島経由で移動してきて、そのナウマンゾウを食料にするために人間も移動してきたとみられています。

縄文時代(BC3000年頃)

縄文時代前期と推定される郷ノ浦町片原触の鎌崎遺跡や名切遺跡が残っています。

特に名切遺跡の「どんぐりの貯蔵穴」は有名です。縄文人の主食は植物食で「クリ・クルミ・トチノミ・どんぐり」それらを越冬に備えて貯蔵していました。

弥生時代(BC300年頃)

原の辻一支国王都復元公園(壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092番地5)
原の辻一支国王都復元公園(壱岐市芦辺町深江鶴亀触1092番地5)

弥生時代には、壱岐のほぼ全島に人が住んでいたと考えられています。

また、中国の史書に壱岐島に関する記述が残されています。

例えば魏志倭人伝(ぎしわじんでん)において邪馬台国の支配下の「一大國」が存在したと記されています。

「魏略(ぎりゃく)・梁書(りょうしょ)・隋書(ずいしょ)」など他の史書では「一支國」が存在したと記されています。

古墳時代(300年頃)

河川の流域や島の中部などに、横穴式石室墳群が分布しています。

壱岐島の郷ノ浦町鬼屋窪古墳の横穴式石室の奥壁には、線刻で帆船とクジラの画がかかれています。

壱岐島は昔からクジラの通り道。クジラを集落で浦に追い込んだ様子を描いたと考えられます。

飛鳥時代(700年頃)

鬼の窟古墳の入口
鬼の窟古墳の入口

令制国として壱岐国が置かれ、鬼の窟古墳の近くには壱岐国分寺が置かれました。

平安時代中期に作られた辞書である和名抄(わみょうしょう)によれば、壱岐郡と石田郡の2郡と11郷が伝えられています。

1019年

女真族(じょしんぞく)と呼ばれる、満州に居住していた北方ツングース系の狩猟民族の一派が壱岐・対馬を襲った「刀伊の入寇」事件が発生します。

この時、国司の壱岐守藤原理忠は、ただちに147人の兵を率いて賊徒の征伐に向かうが、3000人という大集団には敵わず玉砕してしまいます。

関連記事:「対馬・壱岐島・五島列島」の歴史

1274年/1281年

文永の役新城古戦場 千人塚の元寇殉国忠魂塔(壱岐市勝本町新城東触)
文永の役新城古戦場 千人塚の元寇殉国忠魂塔(壱岐市勝本町新城東触)

「モンゴル帝国とその属国により、2回の侵攻を受ける」といった元寇(げんこう)が発生しました。

特に2度目の侵攻である、弘安の役(こうあんのえき)において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊で壱岐島は壊滅的な被害を受けました。

1472年

岸岳城の主であった波多泰が壱岐に侵攻しました。東アジア諸地域で活動した日本の海賊である倭寇(わこう)勢力を排除し勢力下に置きます。

1556年

岸岳城でお家騒動が勃発。真芳と壱岐島の代官らが共謀し、反対勢力を排除して、藤堂丸が当主になります。

ところが日高喜による侵攻を受け、真芳らは岸岳城を奪われ島を支配していた代官らを攻め滅ぼし、城主に波多政を据えます。

このように攻めたり攻められたりの泥沼の攻防戦の末、最終的には壱岐島の城代は松浦氏25代当主・松浦隆信(まつらたかのぶ)子である松浦信実(まつうらのぶざね)が就くことになります。

江戸時代(1600〜1868年)

北澤楽天 「くじらとり」 (1917)
北澤楽天 「くじらとり」 (1917)

松浦党の流れを汲む、平戸松浦氏が治める平戸藩の一部に編入されます。

また江戸時代には、クジラを捕る捕鯨(ほげい)が盛んになりました。

毎年、何万頭という鯨の群れが壱岐周辺の海を泳ぎ、鯨猟を目的とする漁民の組織・鯨組(くじらぐみ)は江戸時代には73組も存在したのです。

1871年

1871年に実施された廃藩置県の際には平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部に編入されました。

この2年後1873年に、壱岐島では農民一揆が発生しています。

大阪に比べ米が安く買い叩かれており政府に対しても高い税金を支払っていたため、土地を手放す農民までいて不満が一気に爆発したのです。

商人の家や酒蔵などが壊され、品物まで盗まれる事件が発生しています。

壱岐島の歴史観光スポット

壱岐島の歴史を知る上で以下の観光スポットは、ぜひ押さえておきたいです。

  • ・猿岩
  • ・辰の島
  • ・月讀神社
  • ・住吉神社
  • ・小島神社
  • ・聖母宮・馬蹄石
  • ・松永安左エ門記念館
  • ・壱岐市立一支国博物館


順番に解説します。

猿岩

猿岩


黒崎半島の先端にある「巨大な猿のような」岩。それが猿岩です。

壱岐島は古事記によると、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が矛で混沌をかき混ぜて作った島です。

「生きた島」であるため2人の神は島のまわりに8本の柱を置き、動くことがないように固定をしました。

その8本の柱のうちの1つが、この猿岩だそうです。

辰の島


辰ノ島は壱岐島の「勝本港」から船で約10分ほどの場所にある無人島です。エメラルド色に輝く透明度の高い遠浅のビーチは非常に魅力的です。

また歴史も深く「剣の池」には、かつて壱岐国の支配者だったカザハヤ王の宝を沈めたという伝説があります。

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ぐるっと回る周遊ツアーもありますよ!

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月讀神社

月読神社
月読神社 写真提供:(一社)長崎県観光連盟

月讀神社(つきよみじんじゃ)は、長崎県壱岐市芦辺町国分東触に鎮座する神社です。

月読尊(つきよみのみこと)夜をつかさどる神として、月に例えられます。月讀神社は占いと関係が深いです。

朝鮮半島や対馬、九州などの航海の安全のため、壱岐氏は占いによって航海の海上案内をしていた歴史があります。

住吉神社

住吉神社
住吉神社 写真提供:(一社)長崎県観光連盟

壱岐島のほぼ中央に位置し、郷ノ浦(ごうのうら)から勝本へ向かう国道の途中の深い森の中に鎮座する壱岐島・住吉神社。

住吉大神の守護によって三韓征伐を為し遂げた神功皇后(じんぐうこうごう)が、現在の壱岐市郷ノ浦町大浦触(ごうのうらちょうおおうらふれ)に上陸。

その時に住吉三神(すみよしさんしん)を祀ったのが壱岐島・住吉神社のはじまりとされており、神功皇后と関係の深い神社です。

小島神社

壱岐のモンサンミッシェル


長崎県壱岐市芦辺町には、岸から約150m沖の海に「小島」という小さな島が浮かんでおり、そこには小島神社があります。

干潮時の前後、数時間だけ海から参道が現れて歩いて参拝することができ「壱岐のモンサンミッシェル」とも呼ばれています。

小島神社がある内海湾は古代一支国の玄関口で、多くの船が行き来していたようです。

聖母宮・馬蹄石

聖母宮(しょうもぐう)とは、長崎県壱岐市勝本町勝本浦に鎮座する神社。

その聖母宮の正門前の道を曲がり海岸へ出て行くとすぐに、立っている石の土台にヒズメの跡が4個ある、馬蹄石(ばていいし)と呼ばれる石があります。

200年の三韓出兵の際、神功皇后が馬上から遠く朝鮮の方を望んでいると、愛馬に神功皇后の気合いがのり移り、馬が石を強く踏みつけたそうです。

それがこのヒヅメの跡だそうです。

松永安左エ門記念館

松永安左エ門記念館
松永安左エ門記念館 写真提供:(一社)長崎県観光連盟

松永安左エ門記念館とは壱岐市石田町出身の「日本の電気王」「電力の鬼」とも称された松永安左エ門(まつながやすざえもん)の功績を伝えるため生家内に建てられた記念館です。

松永安左エ門は慶応義塾で福沢諭吉の教えを受け、1910年の九州電気設立を契機に電気事業に着手、全国的に活躍の場を広げました。

壱岐市立一支国博物館

壱岐市立一支国博物館


長崎県壱岐市にある博物館。

近くにある「魏志倭人伝」に記された一支国の王都跡とされる原の辻遺跡壱岐島内の遺跡に関する資料や出土品を収蔵展示しています。

また博物館では以下のものが用意されており、歴史を楽しく学べるようにもなっています。

  • ・発掘模擬体験
  • ・土器の接合パズル
  • ・フィギュアを利用した弥生時代のジオラマ
  • ・弥生時代の交易の様子を紹介したビューシアター
  • ・一支国博物館オリジナル限定焼き菓子・人面石クッキー
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子供たちが大絶賛!
1時間では時間が足りなかったです。

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壱岐島の歴史まとめ

以上、壱岐島の歴史について解説しました。

壱岐島は朝鮮半島や中国大陸から近いこともあり、大陸の文化が流入するだけではなく大規模な侵攻の被害にあった歴史もあります。

また昔から漁業が盛んで、特に江戸時代には捕鯨(ほげい)で壱岐島は栄えました。

ぜひ今回解説した壱岐島の歴史を踏まえ、実際に壱岐島へ足を運んでみてください。

きっと観光の楽しみが増えるだけではなく「もっと壱岐島を知りたい」といった想いが芽生えることでしょう。

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