壱岐島に関わりのある歴史的人物いろいろ
2023-09-27
壱岐島の歴史には、面白いエピソードを持った人がたくさん登場します。
武士や政治家、実業家まで魅力的な人物がいっぱい。これらの人物を知ることで、より壱岐島の歴史について深い理解が得られ、壱岐島をより楽しめるようになります。
今回の記事では「壱岐島に関わりのある歴史的人物」を、いろいろと紹介したいと思います。
ぜひ最後まで読んでください。
目次
壱岐島・歴史的人物:一覧
- 神功皇后(じんぐうこうごう)
- 伊吉宅麻呂(いきのやかまろ)
- 藤原理忠(ふじわらのまさただ)
- 少弐資能(しょうにすけよし)
- 松浦隆信(まつらたかのぶ)
- 四代目・土肥市兵衛(どいいちべい)
- 松永安左衞門(まつなが やすざえもん)
- Helen Parkhurst(ヘレン・パーカスト)
- Dexter Cate(デクスター・ケイト)
壱岐島・歴史的人物:解説
壱岐島に関わりのある歴史上の人物について、解説します。
神功皇后(じんぐうこうごう)
神功皇后は日本の第14代天皇・仲哀天皇の皇后。
「日本書紀」での名は気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と呼ばれています。
夫である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の崩御から、息子である応神天皇(おうじんてんのう)の即位まで、
天皇に代わって政治を行う初めての摂政(せっしょう)として、約70年間君臨しました。
神功皇后は200年頃、妊娠中の状態であるにも関わらず、甲冑と武器を装備して、
今の朝鮮半島南東部にあった新羅(しらぎ)に出兵したという過激なエピソードがあります。
壱岐島は新羅への通り道であったため、壱岐島の勝本に風待ちのために滞在しています。
壱岐島の住吉神社は神功皇后が建てたものです。
また壱岐島・勝本にある馬蹄石(ばていいし)には「神功皇后が三韓出兵のときに、馬上から遠く朝鮮の方を望んでいると、愛馬に神功皇后の気合いがのり移って、馬が石を強く踏みつけたときについたヒヅメの跡」があります。
このように壱岐島には、神功皇后と関わりのある場所がたくさんあるのです。
伊吉宅麻呂(いきのやかまろ)
伊吉宅麻呂は壱岐の島司。占い師の家系で、先祖には京都・月読神社を建てた押見宿禰(おしみのすくね)がいます。
伊吉宅麻呂は、736年に日本が新羅に派遣した使節である遣新羅使(けんしらぎし)のメンバーでした。
海上で亀ト(きぼく)という、亀の甲を焼いて吉凶を占う祭祀貴族である卜部(うらべ)として伊吉宅麻呂は乗船しています。
亀トは710年頃の奈良時代に、中国から日本に伝来したものです。
当時の支配層は「対馬国・壱岐国・伊豆国」の卜部を神祇官の管轄下に組織し、亀卜の実施と技術の伝承を行っていました。
そのため伊吉宅麻呂は非常に重要人物で、危険な航海をする上で当時としては、無くてはならない存在だったのです。
藤原理忠(ふじわらのまさただ)
藤原理忠は平安時代中期の官吏。官職は壱岐守。
1019年に「船50余隻・船の長さ15m前後・約3000人」の中国東部の、沿海州に住んでいる刀伊賊(といぞく)が、
片苗湾(かたなえわん)一帯から壱岐に上陸。
その急報を聞いた藤原理忠は、直ちに布代城から兵士を率いて賊徒の討伐に向かいます。
ところが約3000人もの賊徒にはとても敵わず、奮戦するも味方の兵士147人と共に藤原理忠は討ち死にしました。
藤原理忠の墓は、長崎県壱岐市勝本町立石南触にあります。
少弐資能(しょうにすけよし)
少弐資能は鎌倉時代前期から中期にかけての武将・御家人。少弐氏2代当主。
1281年のモンゴル帝国(元朝)および南宋(なんそう)と高麗(こうらい)によって行われた対日本侵攻・弘安の役。
この時「船4400隻・14万人」が攻めてきました。この時の壱岐島の戦いで、84歳にも関わらず元軍を相手に奮戦しました。
しかし、この時の負傷が原因で、少弐資能は命を落とすことになります。
松浦隆信(まつらたかのぶ)
松浦隆信は、肥前国(現在の長崎と佐賀あたり)の戦国大名。嵯峨源氏一流松浦氏25代当主。
1571年に壱岐を支配下に置いた。
1550年にフランシスコ・ザビエルが布教を断られた鹿児島から平戸にやってきました。
松浦隆信は平戸での宣教師の活動を許したため、1553年から1561年までの間、
ポルトガル船は毎年来航するようになり、平戸は中心交易地として栄えました。
四代目・土肥市兵衛(どいいちべい)
四代目・土肥市兵衛はクジラを捕獲する捕鯨(ほげい)で栄えた、土肥組の四代目です。
土肥組は京都の祇園で毎晩ドンチャン騒ぎをし、芸者や舞妓数十名を壱岐島の勝本に連れ帰り屋敷に住まわせていました。
1767年に建てられた新宅のまわりには「高さ7m・長さ90m」の大きな塀があります。実はその塀は「接待の様子が見えないようにするため」といった理由から建てられたようです。
そのようなエピソードもあり、その大きな塀は地元の人々からは、阿呆塀(あほうべい)の名で呼ばれるようになりました。
松永安左衞門(まつなが やすざえもん)
松永安左エ門は明治末期から昭和にかけて、長く日本の電力業界において活動した長崎県壱岐島出身の実業家。
GHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題となった時、電気事業再編成審議会会長に抜擢されました。
「電力さえ安く豊富に供給すれば、日本人は自分で産業を興せる。そして国は豊かになるんだ」
このような信念の元、現在の電力事業の型である九電力体制構想(分割民営化構想)を松永安左エ門は立てました。
他の委員や財界人、GHQとも対立しながら、この九電力体制構想の採用を実現したのです。
また民営化した電力会社の状況改善や更なる電力の供給のため「値上げ幅約7割増」といった驚異的な値上げを断行したことでも良く知られています。
そのため、当時の消費者からは多くの非難を浴び「電力の鬼」といった異名も持っています。
松永安左エ門は壱岐島の印通寺浦(いんつうじうら)に住んでいた子供の頃、福澤諭吉の「学問のすすめ」に深く感化され、東京へ出て慶應義塾大学に入学します。
福澤諭吉と朝の散歩を共にしたり、その後は福澤諭吉と共に神戸や大阪等で材木商や石炭業を営んでいたりと、
松永安左エ門は福澤諭吉とも関わりの深い人物であったりします。
Helen Parkhurst(ヘレン・パーカスト)
ヘレン・パーカストは、アメリカ合衆国の教育者で著述家。
生徒の自主性を伸ばしながら、社会性や協調性をバランスよく学ぶことを目的としたドルトン・プランの提唱者で、
ドルトンスクールの創立者です。
ドルトン・プランではクラス制度や時間割りを廃止し、生徒自身に学習計画を立てさせ教師は一人で何科目も指導するのではなく、自分の専門科目だけを指導します。
1924年に東京を訪れていたヘレン・パーカストの講演会に、壱岐の学校長が講演に来ていました。
そこで「ぜひ、壱岐にも来てほしい」とヘレン・パーカストにオファーを出し承諾を得ることに成功します。
当時は壱岐の十六校の校長や、かり出された一般市民、児童等が日米の国旗を打ち振りながら万歳を連呼するなど、ヘレン・パーカストを盛大に歓迎したようです。
Dexter Cate(デクスター・ケイト)
動物愛護団体「地球共存協会」会長。グリーンピース財団・活動家。壱岐イルカ事件の容疑者。
1965年頃から壱岐島周辺では、イルカの大群が出現するようになりました。
知能が高いことでイルカは有名ですが「大食い」なのが大問題。
イルカの1日の食事量は8kg〜11kgで、サバやイワシ、ブリなどやイカやカニなどの甲殻類でさえもイルカは食べます。
そのため、イルカの大群が現れると、その辺りは魚が食べつくされてしまうのです。
またイルカは、魚を釣り上げている途中でも漁具を壊して奪ってしまいます。
当初は対処に苦慮していましたが壱岐島の人々は1976年に、
和歌山県太地や静岡県富戸から学んだ「イルカ追い込み漁」を実施し、イルカ漁を成功させます。
1978年には壱岐島勝本の漁民が網を使って、4時間がかりで1,010頭のイルカを追い込むことに成功しました。
ところが、この勝本のイルカ漁の写真が撮られ、世界中に拡散されることになります。
捕まえたイルカを腐敗防止のために、血抜きをしていたわけですが1,010頭もの数なので海が血に染まりました。
事情を知らない人や動物愛護団体の人からしたら衝撃的な光景でもあるため、一気に国際問題化したのです。
そんな中、1980年にデクスター・ケイトが「ゴムボートで無人島・辰の島へ向かい、1,000頭程のオキゴンドウとバンドウイルカを囲っている網を切って破壊し、約300頭程のイルカが逃げる」といった事件が発生しました。
後の裁判でケイトは、イルカを逃がした事実は認めたものの「イルカは有害動物ではないのでその駆除は漁民の正当な業務に当たらない」といった主張をしました。
しかし「複数の漁協が共同で設立した海豚対策協議会が、イルカを漁業上有害な動物として捕獲し処理することは正当な事業であって業務妨害罪によって保護されるべき業務に当たるから、動物愛護団体に所属する被告人が捕獲網のロープを切断するなどして捕獲イルカ約300頭を逃走させた行為は、威力業務妨害罪を構成する」
として、懲役6ヶ月、執行猶予3年の有罪判決がケイトに言い渡されました。
その後、壱岐島周辺のブリの減少と共に、イルカも殆ど来なくなり1986年を最後に、
イルカの大規模な捕獲は行われなくなりました。
壱岐島で知っておきたい歴史的人物いろいろ:まとめ
以上、「壱岐島に関わりのある歴史的人物」を紹介し、解説しました。
壱岐島には今回、紹介しきれなかったほど、たくさんの魅力的な人物がいます。
人物を知れば歴史について、さらに深い知見が得られ、壱岐島をまた別の角度から楽しむことができます。
ぜひ壱岐島の歴史的人物についても、調べてみてください。
シェアよろしくお願いします!