「対馬・壱岐島・五島列島」の歴史

  • ・対馬
  • ・壱岐島
  • ・五島列島


これら3つの島は朝鮮半島から近いこともあり、似たような歴史があります。

それぞれの島は歴史的に密接な関係があり、3つの島の歴史を知ることで俯瞰的な視点を持つことでき、それぞれの島に対して、より理解が深まります。

この記事では「対馬・壱岐島・五島列島」この3つの島の歴史を紹介し、その魅力について語ってみたいと思います。

ぜひ最後まで読んでみてください。

「対馬・壱岐島・五島列島」の歴史年表

  • ・対馬
  • ・壱岐島
  • ・五島列島


これら3つの島の歴史年表は以下の通りです。

個別に紹介します。

対馬の歴史年表

金田城址の朝鮮式石塁 一ノ城戸跡
  • ・縄文時代(BC3000年頃):佐賀貝塚や志多留貝塚からは外洋性の魚の骨が出土
  • ・弥生時代(BC100年頃):魏志倭人伝では「対馬国」は倭の一国として登場
  • ・古墳時代(300年頃):出居塚古墳は前方後方墳で、有茎柳葉式銅鏃・鉄剣・管玉等が出土
  • ・664年:白村江の戦い以後、防人が置かれ、烽火が8か所に設置
  • ・667年:浅茅湾南岸に金田城を築いて国境要塞とする
  • ・674年:厳原が正式な国府の地に定まる。
  • ・701年:対馬で産出したと称する金を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「大宝」の元号が建てられる
  • ・894年:新羅の賊船45隻が来寇した
  • ・1019年:「刀伊の入寇」事件が発生し、賊船50隻が対馬を襲撃
  • ・1197年:後に対馬の支配者となった、宗氏が対馬の在庁官人として登場
  • ・1274年/1281年:モンゴル帝国とその属国により、2回の侵攻を受ける
  • ・1389年:慶尚道元帥朴葳に率いられた高麗軍が倭寇討伐のために対馬を襲撃
  • ・1510年:朝鮮王朝の貿易抑制政策や恒居倭に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は「富山浦・乃而浦・塩浦」において兵乱を起こした
  • ・1591年:豊臣秀吉が朝鮮出兵のため、清水山城と撃方山城が築かれた
  • ・1663年:対馬藩により5基の船着き場が造成
  • ・1861年:ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、一時占拠する事件が起こった
  • ・1863年:孝明天皇より対馬藩に対して攘夷の勅許と御沙汰書が下る
  • ・1864年:佐幕派で藩主宗義達の叔父にあたる勝井員周が藩内で主導権を握り、家老大浦教之助をはじめとする勤皇派100余名を粛清するという大事件が発生
  • ・1871年:7月の廃藩置県により対馬は厳原県となり、その後9月に伊万里県へ編入された
  • ・1878年:大日本帝国陸軍は熊本鎮台から対馬分遣隊を対馬に派遣
  • ・1884年:宗義達は伯爵を授けられた
  • ・1883年:門司税関厳原出張所が開設され、翌年の2月には「朝鮮貿易港」に指定
  • ・1908年:市制・町村制が施行
  • ・1926年:対馬島庁は対馬支庁に改称
  • ・1950年:朝鮮戦争が勃発。国境の島であり対馬に甚大な影響をあたえた
  • ・2004年:対馬の6町すべてが合併して市制施行し、対馬市の1市体制となる

壱岐島の歴史年表

鬼の窟古墳の入口(6世紀後半~7世紀前半頃に築造 横穴式石室)
  • ・旧石器時代(BC20000年頃):カラカミ遺跡や原の辻遺跡から人の痕跡が見つかる
  • ・縄文時代(BC3000年頃):片原触鎌崎遺跡は縄文時代後期と推定される
  • ・弥生時代(BC100年頃):魏志倭人伝に一支國(いきこく)があったと記される
  • ・古墳時代(300年頃):河川の流域や島の中部などに、横穴式石室墳群が分布
  • ・1019年:「刀伊の入寇」事件が発生。
  • ・1274年/1281年:モンゴル帝国とその属国により、2回の侵攻を受ける
  • ・1472年:岸岳城の主であった波多泰が壱岐に進攻
  • ・1556年:岸岳城でお家騒動の末、藤堂丸が当主に
  • ・江戸時代(1600〜1868年):壱岐島は平戸藩へ一部編入
  • ・1871年:廃藩置県の際に平戸県に属し、その年には再編により長崎県の一部に編入
  • ・1896年:郡区町村編制法で統合され、壱岐郡のみが残される
  • ・1889年:壱岐郡に7村。石田郡に5村の計12村が発足
  • ・2004年:壱岐市が誕生

五島列島の歴史年表

福江城(石田城)
  • ・旧石器時代(BC20000年頃):人が住み着いていた痕跡あり
  • ・300年前~400年:景行天皇は九州巡幸の時、従者に命じて五島内を視察させていた
  • ・712年:古事記の国産みの物語で五島列島を指す、知訶島の記述がある
  • ・704年:第7次遣唐使船帰朝の際に玉之浦へ漂着
  • ・740年:大宰少弐藤原広嗣が反乱を起こしたが敗れる
  • ・804年:第16次遣唐使船4隻、久賀島田之浦に寄泊して「渡唐・最澄・空海」らが随行
  • ・842年: 唐の商人李処人が博多から唐へ向かう途中、値嘉嶋奈留浦(奈留島)に寄港
  • ・876年:五島列島と平戸島地域を併せて値嘉島という行政区画とし、島司が置かれた
  • ・1187年:松浦一族より宇久推定、宇久島にて宇久氏を名乗る
  • ・1413年: 五島各地に拠点を構えていた豪族により五箇条の規約を設けた「宇久浦中契約」が成立し、9代目領主の宇久勝が五島の党首に推され五島統一がなった
  • ・1540年: 明の商人の王直が通商を求めて五島に来航し、領主の宇久盛定は、通商を許可して城下に居住地を与えた
  • ・1863年:福江城(石田城)完成
  • ・1900年:福江城本丸跡に長崎県立五島中学校創
  • ・1912年:「五島~長崎」「五島~佐世保」間に定期航路開設
  • ・1962年:五島の中心地福江市の中心市街地が全焼
  • ・1955年:西海国立公園の制定により、五島各地が国立公園に含まれる
  • ・1962年:福江大火により市の中心部604戸が焼失
  • ・1963年:福江空港完成
  • ・1964年:集中豪雨により福江川氾濫
  • ・2011年: 「五島市久賀島の文化的景観」 及び「小値賀諸島の文化的景観」が重要文化的景観として選定
  • ・2012年:「新上五島町北魚目の文化的景観」及び「新上五島町崎浦の五島石集落景観」が重要文化的景観として選定

「対馬・壱岐島・五島列島」の歴史概要

「対馬・壱岐島・五島列島」はどんなところなのか?

それぞれの島の歴史を踏まえ、個別に解説します。

対馬:歴史概要

朝鮮通信使行列 写真提供:(一社)長崎県観光連盟

対馬(つしま)は日本の九州の北方の玄界灘にある、長崎県に属する島です。

朝鮮半島へは朝鮮海峡をはさんで約49.5キロメートルの距離にあります。韓国や北朝鮮から目と鼻の先。

山が多く崖も多く、平地はあまりありません。

そのため、対馬では古代より船で日本列島と朝鮮半島を行き来しての交易が盛んに行われてきました。漁業や交易で生計を立てていたわけです。

対馬は古事記で最初に生まれた島々「大八島国」の1つとして「津島」と記されています。また日本書紀の国産み神話のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場します。

対馬は「壱岐島・五島列島」と同じく朝鮮半島に近いため、それに伴うトラブルも数多く抱えてきました。

  • ・1019年:「刀伊の入寇」事件が発生し、女真(じょしん)と呼ばれる海賊が来襲
  • ・1274年/1281年:モンゴル帝国とその属国が侵攻。当時世界最大規模の艦隊が来襲
  • ・1510年:朝鮮王朝の貿易抑制政策や恒居倭(朝鮮在留日本人)に対する締め付けに耐えかね、恒居倭と宗氏は「富山浦・乃而浦・塩浦」において兵乱を起こした
  • ・1861年:ロシアの軍艦ポサドニック号が浅茅湾に投錨し、一時占拠する事件が発生


このように朝鮮などの周辺諸国関連で、大きなトラブルに巻き込まれています。どの国も国境付近では小競り合いがおこるものですが、対馬も例外ではありません。

対馬は戦いの歴史も多いのですが、沢山の交易をしてきたので文化の多様性を感じられる場所でもあります。

壱岐島:歴史概要

原の辻遺跡

壱岐島(いきのしま)は、長崎県の離島で、九州と対馬の間に位置します。古事記では伊伎島(いきのしま)と書かれ、別名を天比登都柱(あめひとつばしら)といいます。

弥生時代、壱岐島の東南部の深江田原(ふかえたばる)には一支国の王都・原の辻(はるのつじ)がありました。

その頃の壱岐島は海上交易が盛んで、国際交流都市の先駆けとして日本人だけでなく、朝鮮半島から移り住んだ人もいて、活気に満ち溢れた土地でした。

壱岐島も「対馬・五島列島」と同じく、中国や朝鮮にも近いため、それに伴うトラブルも数多く抱えていました。

  • ・1019年:「刀伊の入寇」事件が発生し、女真(じょしん)と呼ばれる海賊が来襲
  • ・1274年/1281年:モンゴル帝国とその属国が侵攻。当時世界最大規模の艦隊が来襲


特にモンゴル帝国の侵攻・元寇(げんこう)は壱岐島に深刻な被害をもたらしました。しかし、台風などの天候が味方につき、モンゴル帝国を撤退させることに成功しています。

壱岐島では日本だけではなく中国や朝鮮の文化の名残りも見ることができるので、観光の際は、そこに注意をすると、より楽しめると思います。

五島列島:歴史概要

堂崎天主堂(五島列島で最初に建てられた聖堂)

五島列島(ごとうれっとう)は、長崎県西部に位置する列島で長崎県に属します。
この五島列島も「壱岐島・対馬」と同じように、朝鮮をはじめとした周辺国との深い歴史があります。

特に663年の白村江の戦い後、日本は朝鮮半島南東部にあった新羅(しらぎ)との外交関係が悪化します。
そのため、中国大陸に入るのに、五島列島から東シナ海を横断する、危険な航路をとらなければならなくなりました。
中国から日本に仏教を持ち帰った空海と最澄も、この危険な航路を通り、その過程で五島列島に足を運んでいます。

また1556年頃はイエズス会の宣教師も来島していて布教活動を行っています。
そのため朝鮮や中国関連だけではなく、西洋文化であるキリスト教の聖堂なども五島列島にはあったりします。

「対馬・壱岐島・五島列島」の歴史:まとめ

以上、「対馬・壱岐島・五島列島」この3つの島の歴史を紹介し、その魅力についても語ってみました。

「対馬・壱岐島・五島列島」

この3つの島は、歴史的に朝鮮半島や中国大陸から影響を受けています。島の歴史をそれぞれ個別に見ると、島同士の関連などを見つけることができます。

ぜひ、この3つの島に実際に足を運ぶ予定のある人は、それぞれの歴史を調べてみてください。その方が俯瞰的な視点を持つことができ、旅が何倍も楽しいものになるはずです。

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