壱岐島・猿岩の歴史をご紹介!
2023-08-07
壱岐島(いきのしま)の西部・黒崎半島の先端にそびえる巨大な岩。
それが猿岩(さるいわ)です。
高さ48メートル。子供の猿を背負ったシルエットに見えるため、メス猿と一応は言われています。
今回は、そんな「猿岩の歴史」と「押えておきたい周辺スポット」について解説します。
目次
壱岐島・猿岩の歴史
壱岐島の猿岩には、日本神話における逸話があります。
日本最古の史書・古事記によると壱岐島は、
伊邪那岐命(いざなぎのみこと)と伊邪那美命(いざなみのみこと)が矛で混沌をかき混ぜて作った島です。
「生きた島」であったため、2人の神は島のまわりに8本の柱を置き、動くことがないように固定をしました。
その8本の柱のうちの1つが、この猿岩だそうです。
壱岐島の名前の由来
上の項で紹介した通り、古事記において壱岐島は「生きた島」とされています。
それがやがて「壱岐島と呼ばれるようになった」といった説があります。
「生きた島→壱岐島」
しかし、壱岐島(いきのしま)の名前の由来は他にもあります。
- ・壱岐島の砂浜が雪のようで雪の島と呼ばれ、やがて壱岐島と呼ばれるようになった
- ・壱岐島は朝鮮や中国に渡るための中継地点であったため「大陸へ行く途中の島であること」から「イキ」が「壱岐」と変わり、壱岐島(いきのしま)と呼ばれるようになった
このように、壱岐島の名前の由来はいろいろあるのです。
なぜ猿岩は、猿のような不思議なシルエットになったのか?
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
猿のようなシルエットになったのは、玄武岩(げんぶがん)特有の柱状節理(ちゅうじょうせつり)が大きな要因です。
猿岩は、玄武岩と呼ばれる火山岩の一種で作られています。
実は壱岐島のほとんどは玄武岩によって構成されていて、約700万年前〜70万年前の火山活動によって形成されました。
溶岩やマグマが冷えて固まるとき、少しだけ体積が小さくなります。
冷えていく溶岩やマグマ全体が縮むときに、5角形や6角形の柱状の割れ目ができ、これを柱状節理と呼ぶのです。
壱岐島の猿岩のように、玄武岩の柱状節理は神秘的な風景を産みます。
以下のように世界には玄武岩スポットが沢山あります。
- ・兵庫県の玄武洞公園
- ・アメリカのデビルズ・タワー
- ・アイスランドのブラックサンドビーチ
- ・メキシコのプリスマ・バサルティコス
- ・イギリスのジャイアンツ・コーズウェイ
- ・台湾の大菓葉玄武岩(ダーグォイェシュエンウーイェン)
日本における玄武岩の名前の由来は、兵庫県の玄武洞にあります。
玄武洞公園(兵庫県)
江戸時代に儒学者の柴野 栗山(しばのりつざ)が現地を訪れた際に、
柱状節理の断面を見て中国の四神である玄武の亀の甲羅を想起し、玄武洞を命名しました。
そして、明治時代に入り東京大学の地質学者である「小藤文次郎氏」が玄武洞を作っている火山岩を「玄武岩」と名付け今に至ります。
玄武岩の柱状節理が不思議な風景を作るのは世界的にも良くある話ですが
「多くの人を引きつける不思議なパワー」があるのは間違いありません。
壱岐島・猿岩周辺のスポット
壱岐島・猿岩の周辺には、ぜひ足を運びたいスポットがいくつかあります。
いくつかピックアップして紹介します。
ゴリラ岩
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
壱岐島の西端部には、ゴリラに見えるゴリラ岩が存在します。
ゴリラ岩は猿岩の視線の先です。しかもゴリラ岩は、よく見ると微笑んだ表情。
そのため「猿に見つめられて、微笑んだゴリラ」の姿を想像できます。
猿岩とゴリラ岩は、セットで足を運ぶ人が多いようです。
黒崎砲台跡
写真提供:(一社)長崎県観光連盟
猿岩のすぐ近くには、黒崎砲台跡があります。
- ・砲台の口径約41㎝
- ・砲身の長さ約18m
- ・弾丸の重さ約1トン
- ・最大射程距離35km
東洋一と言われた巨大な砲台がありました。
なぜ、このような砲台があったのかと言うと、第一次世界大戦後1922年のワシントン軍縮会議までさかのぼります。
ワシントン軍縮会議で、主力艦の保有トン数を「米英50万トン・日本30万トン・仏伊17万5000トン」さらに「主砲は16インチ以下」と決められたのです。
そのため、条約会議開催までに完成していない艦は廃艦。加賀型戦艦の2隻(加賀と土佐)と天城型巡洋戦艦4隻(天城、赤城、高雄、愛宕)は建造中止になりました。
この黒崎砲台の巨大砲台は戦艦「赤城」もしくは戦艦「土佐」のものが転用されたと言われています。
隠された砲台
黒崎砲台は、実は日本軍の秘密要塞に設置された砲台です。
1922年のワシントン軍縮会議で、戦艦の破棄の条件は飲んだものの「砲台は残しておきたい」と日本軍上層部は考えました。
そのため猿岩周辺の黒崎半島は用地買収が進み、戦時中は陸軍2個中隊以外、誰も通ることのできない「立ち入り禁止区域」となったのです。
黒崎砲台は、九州の北西部に広がる海域・玄界灘(げんかいなだ)を全て射程内においていたほどの巨大砲でした。
そのため、立ち入り禁止の他に、2〜4mに育つイネ科のダンチクなどを植えて砲台を隠したのです。
砲台は普段は地下にあって、打つ時だけ地上に顔を覗かせる仕組みでした。
しかし、東洋一と言われるほどの黒崎砲台は、第二次世界大戦が航空機が主流になったため、実戦では1度も使われず終戦を迎えることになります。
現代では、戦時中に黒崎砲台を隠すために植えられたダンチクが増えすぎてしまい、畑や田んぼを荒らすので現地民の人は困っているようです。
唐人神展望所
猿岩から道路を挟んで反対側に、唐人神展望所があります。
かつて、この地では唐人神を祀っていました。
唐人神の唐人とは中国や朝鮮の人のことです。壱岐島の場所は韓国が領土を主張していることで有名な、あの対馬と68kmほどの距離しかありません。
そのため「朝鮮半島に住んでいる人の亡骸」などが壱岐島に流れてくることがありました。
唐人神展望所のあたりも、中世に唐人の下半身が流れてきて、地元の漁師が「成仏しますように」と願いを込めて祀ったようです。
もともと壱岐島では「異国から来たものはすべて神」と考える風習がありました。そういった理由もあり、唐人神を祀ることに繋がったようです。
戦時中に黒崎半島を要塞化する時に、この地で祀られていた唐人神も移動しました。しかし、今も当時の風格を残し、唐人展望所として、多くの人を引きつけているようです。
太郎礫と次郎礫
猿岩の近くの断崖絶壁に太郎礫(たろうつぶて)と次郎礫(じろうつぶて)と呼ばれる大きな丸い岩があります。
この太郎礫と次郎礫、実は壱岐島の伝説に関連する岩であったりします。
壱岐島は「かつて鬼ヶ島だった」といった伝説があるのです。
かつて天上に住んでいた鬼が壱岐島に降りてきて、島の住民を苦しめていたそうです。
そこで天狗の元で修行をした、百合若大臣(ゆりわかだいじん)が壱岐島に鬼退治に行くことになります。
当時の壱岐島は悪毒王と呼ばれる鬼が支配しており、その手下には風よりも速く走る「ハヤテの太郎」と、どんなに遠くのものでも見ることのできる「遠見の次郎」がいました。
その悪毒王の手下である「ハヤテ太郎」「遠見の次郎」と百合若大臣は戦うことになり、以下のような状況になります。
- ・ハヤテの太郎が百合若大臣に向けて大岩を投げる→鉄の扇で跳ね返される
- ・今度は遠見の次郎が百合若大臣に向けて大岩を投げる→鉄の扇で跳ね返される
その時に、鉄の扇で跳ね返された岩が、それぞれ「太郎礫」「次郎礫」と呼ばれたそうです。
壱岐島の猿岩の近くにある太郎礫と次郎礫には、そのような鬼退治に関する伝説があるのです。
お猿のかご屋
猿岩の近くには、アンテナショップ「お猿のかご屋」があります。壱岐島の名産品や木工細工などが売っています。
また暑い時期はアイスクリームも販売してるため、猿岩の近くに行った際はぜひ立ち寄りたいお店です。
- 〒811-5103
- 長崎県壱岐市郷ノ浦町新田触870
- TEL:0920-46-0817
- 営業時間(4月~9月):8:00~17:00
- 営業時間(10月~3月):8:30~17:30
- 駐車場:20台
観音岩
猿岩と同じく、8柱に数えられる観音岩があります。
観音の名の通り「観音様に似ている岩」ということですが、地上からではタダの岩にしか見えません。
船などに乗って海上から見ると観音様に見える岩だそうです。
歌碑
「天町のたわむれおかしとあかずみる壱岐猿岩の夏姿かな」
猿岩の近くの駐車場に、短歌が彫られた碑(いしぶみ)があります。
壱岐島・猿岩の歴史:まとめ
以上、壱岐島・猿岩の歴史と抑えておきた周辺スポットについて、解説しました。
猿岩は写真撮影にはもってこいの「インスタ映え」のする場所です。夕日の時に写真を撮りに行く人が多いようです。
ぜひ、壱岐島に行ったら、猿岩に足を運んでみてください。
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